between earth and sky

自然との調和を探る旅。旅と自然と子育てと。

子どもとふれあうこと

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今、この時期子どもや家族と向き合う時間を、いかがお過ごしでしょうか?

コロナ離婚なんて言葉もちらほら聞くほどですが…

子どもたちの学校も休校で、今までの日常がもはや日常ではなくなり

そこにまだ慣れないうちはストレスを感じる人も少なからずいるのでしょう。

 

幸い、我が家は家が仕事場であり夫婦で宿を営んでいるので、自粛生活といってもこれといって今までと変わりない日々。二個一みたいなものなので笑

息子のホームスクーリングも週3で週の半分は家にいる生活だったこともあり、

なりよりも送り迎えにお弁当づくりがなくなった今はどちらかと言うとのんびりと毎日が過ごせています。

 

きっと家族や子どもとの絆をより深めている人も多いいと感じています。

そして、そうであって欲しいとも願っています。

 

私は、今までの生活に戻ることはないと思ってるし、”戻る”必要もないと思っています。

次のステージを楽しみに待っているから。

これはたくさんの人が共感できるところだと思います。

 

では、振り返ってみてこれまでの子どもとの時間はどうだったでしょうか?

これは私自身も10歳の息子を育て、他の親子の関係を見ながら私が感じていたこと。

 

私がこの記事を頭で思い描いている時に、FBでフォローしているある素晴らしい医師が投稿していた文章にズバリ私の言いたいことを一言にうまく表現されていたので、その言葉をそのまま使わせていただきます。

 

『知識ではないものを伝えて実感させていくこと』

 

誰もが、子どもの将来を思って、苦労しないようにと今のうちから…と言う気持ちも十分わかる。でもこれまでのお金を稼ぐ、大きく言うと物質主義的な生き方がもう通用しなくなっていくであろう将来、果たして知識だけを詰め込めばいいのだろうか?

いい学校に行かせること。たくさん頭に詰め込ませること。

一週間が学校と宿題と、習い事で埋まっている子どもたち。

ここバリ島在住日本人でも同じことが言えます。

そこばかりに親は必死になっていますが、私たち”親”が子に何を伝えてあげられていますか?

 

私が言いたいのは、

子どもの教育を外に任せすぎだと言うこと。

 

親が自分たちができなかったこと、または理想を子どもたちに押し付けているだけ、そして親たち自身が体験するわけではなく、他人にそれ一切を任せてしまいすぎると言うこと。

知識は学校や塾で。

運動も習い事で。

他にも課外活動的なものはそう言う施設?に連れて行って体験させてくる。

と言った具合ではないだろうか?

そして親たちはそれで子どもにやってあげていると言う自己満足に陥っていないだろうか?

 

それらが善悪はなく、

ただもっと身近に最良の教師がいるのに。

親という私たちが。

私たち親が暮らしを通して伝えていけることが山ほどあるということ。そして、親がもっと人生を楽しむ姿を見せることが大切なのではないかと思っている。

どうするかと言えば、子どもが勉強を聞いてきたときはしっかりと向き合って答えられる限りは答えるようにする。一緒に考えてあげたり、答えをただ教えるのではなく、答えを導き出す方法を教えてあげる。学習方法をアドバイスするとか。

体を動かすことなら一緒に動く。

外でのアクティビティは一緒に楽しむ。(キャンプに連れてくとか、海で、山で遊ぶ。とか)

要は、しっかりと子どもに向き合うということ。

そうしないと、子どもには伝わらないと思う。

そして、それを通して私たちも子どもたちから多くの学びを得られるのに。

要は、子どももまた私たち親にとっての最良の教師であると言うこと。

 

最初にあげた言葉のように、知識ではない、生活やふれあいを通して子どもが感じること、学んでいくということが大事なのではないだろうか。

私が子どもに言うことは、

「あなたが今学校や家庭生活において学ぶということは、将来あなたが自分の足でしっかりと立って生きていけるようにすることなのだと。どんな道であろうと自分で自分の道を生きていけるようにするためなのだ」と。

 

怒る時もただ怒りに任せるのではなく、しっかりとその理由を話すこと。

子どもの話にしっかりと向き合う。どうせ子どもだから…と言ったような姿勢は一切とらない。

そして自分が伝えることは実感と体験に基づき、まず自分が見本を見せること。

 

これらは私が実践してきた、そして今も継続中のこと。

私は”いい母””ちゃんとした母”であろうとしたいがためにやってきたのではない。

そして誰かや本に教わったことでもない。

私が真剣に息子を想ったら自然にとってきた行動、考え方であるだけ。

そして、今私と息子の関係はお互いが強く信頼関係と深い愛の絆で結ばれていると確信している。

 

自分の”好き”を諦めて全てを子どもに注げとか言うのではない、ただ”好き”で産んだ子なのだから、どっちの”好き”も大事にしてあげよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

止まない雨はない

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もう何処もかしこもこの話題ばかりであえて、ここでどうこう触れる気はないのだけれど、

日本も東京オリンピックが延期になったことをきっかけに、どんどんと感染者の拡大が明るみになってきている。

今までなんとなく他人事でいた人も、多少なりとも危機感や不安を感じ始めているのではないだろうか?

日本は情報規制がすごいからなかなか外の状況を知ることはないかもしれないけど、

バリ島で暮らしていると様々な情報が入ってくる。

それを見てると、休日に公園に集まる人(何を求めてかしらないが、何処かに長蛇の列ができてたり!)や、お花見している人がいっぱいいてぶったまげてたけど。笑

海外(欧米諸国)ではもはやあり得ない光景だから。

 

でも流石に、ここ数日の動きでみんなの意識も少しづつ変化しているのだろうと察する。

 

私の暮らすバリ島も徐々に感染は広がっていて、ゆるゆるではあるが外出自粛要請も。

 

そんな今、私が思うこと。

 

いやでも情報はいっぱい入ってくるけど、自分の中にそれを取り込まないようにしている。

必要な情報(外出禁止とか)はちゃんと把握し、

スーパーなどの人が集まるような場所への外出は、他人を不快にさせない為にも、

マスクをつけたり、不必要に近づくことがないようにしている。

 

ただ、今ある状況を見ないようにして自分は別の世界を見てるのよ〜♫

みたいなスピリチュアル好きの人のように目を背けるのではなくて、

今起きていることを捉えつつも、

自分が、観賞者の立場で立つことを心がけている。

そして、光を見ている。

 

毎朝の瞑想、呼吸法にアーサナの練習。

これらが私の軸を整えてくれる。

魂が喜ぶのを感じる。

魂が”大丈夫だよ”と言うのが聞こえる。

 

意識を光に向けること。

 

「夜明け前が一番暗いんだよ」

何処かにこんな言葉があったよね。

 

闇を超えた、光に意識を向けていこう。

 

朝が苦手な人は、月光浴をしながら深呼吸をしてみよう。

 

月の光が遮られているならば、

好きな香りや音を楽しもう。

 

魂の喜ぶことをしていると、

全身がリラックスしてくる。

そして、気持ちもずっとポジティブになる。

 

そして、この今ある時間を今できることに精一杯費やそう。

料理をしたり、お庭をいじったり。本や漫画を読みふけったり。

なんでもいい。

 

川の流れを止めようともがくよりも、

流れた方がうまくいく。

 

心を落ち着けてると、

自分は大丈夫なんて驕りではなく、

この先は必ず全てうまくいく(自分のことだけではなく、全てのことに対してね。)

という自信がわく。

 

その光を見つめよう。

 

 

 

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アラスカにあこがれて

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もうかれこれ愛読歴は軽く15年は経つのかな。

本棚の一番手前のすぐ手の届くところにいつもそれは並んでいる。

 

私の最も敬愛する作家であり、写真家。

星野道夫さん。

 

ここ数日、体調不良と雨が続くバリ島。

それに加えコロナウィルスの影響を受け仕事は静かなため、

ほとんど家に引きこもり状態。

そんな時は私はひたすら本を読んで過ごしている。

(それ以外のやる気が出ないだけなのだけど…)

 

そして、星野さんの本をまた片っ端から再読中。

もう何度目になるかもわからなくなるくらいで、話の先も知っているのに、

時々無性に読みたくなる。

 

その中でも特に私が好きなのが、

上の写真にもある、星野さんの遺作となった

ノーザンライツ

 

前半部分は、著者と親交のあった人々のアラスカでの歴史を綴っている。

それがなんとも私を惹きつける。

 

アラスカが自然保護か開発かで揺れ動く激動の、そしてまだ未開のアラスカの時代を生きた人たちのストーリー。

 

私もこの時代にこのアラスカを生きてみたかった。

 

 

寒い所が苦手で、島にずっと憧れてた。

でも、星野さんの著書や実際に常夏の楽園に暮らしてみて、

私は季節があることがなんと愛おしいことだろうと思うようになった。

 

寒いのは辛いけど、寒さに憧れるほどになった。

島だけではない、全ての自然が好きになった。

そして全ての命が繋がっていることを教えてくれた、星野さんを通して知ることとなった

アラスカ原住民や他のアメリカ先住民たちの暮らしと智恵。

 

色んなことを彼の著書や写真を通して出会えた。

そして何よりも彼の優しさの込められた文章が大好きなのである。

 

さあそろそろアラスカへの旅を始めようかな。

 

 

 

 

 

 

 

ヴィーガニズム

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以前にもかいたveganについてさらに掘り下げて。

なぜまた書くかというと、私の周りの環境がveganが多かったり、SNSを通してGO VEGAN!と訴える人がやたらめったら目につくので、今日はまた私の思うこと。

 

私は個人の好みの問題でveganであることに対しては何かを言うつもりは一切ない。

 

多くのWesternのveganスピーカーたち、そしてそれに影響を受け日本でもそれを広めている人たちが言おうとしていることは真っ当なこともある。理解もできる。

 

畜産業がどれだけの環境汚染を招いているか。

家畜の餌のための作物がどれだけの作物の生産の割合を占め、そしてそれがなければ貧困の人たちへも食料が行き渡るに十分な作物が生産できると言うこと。

そして、家畜たちの劣悪な飼育環境の問題。

等々。

 

今の畜産業がどれだけの問題を抱えているかもわずかながら知っているし、

これらの問題を無視していない。

これらは改善されなければいけないと思っている。

 

 

そして、彼らは言う。

「子どもの頃のように、動物を愛していたことを思い出そうよ」

「自然と動物との調和」

「動物がかわいそう」

などと、至極もっともに聞こえることを。

けど、彼らのその話し方や態度に虫唾が走るのは、物事を斜めからしか見れない私だけだろうか?

 

どこかで読んだものに、こう書いてあった。

「西洋人たちの世界は、人間中心で世界が成り立っている。

そして東洋人のそれは、人間も自然の一部であると言うこと。」

 

そうだなぁ。と改めてこの言葉を思い出していた。

だから私は彼らの発言が時に、偽善のようにしか聞こえないのだ。

彼らにとっては”人間のための”自然なのだ。

 

全ての自然は命の奪い合い。

こう言う風に書くと、残酷にも聞こえるが。

いや、自然は時に残酷で、でも全てお互いの命のために繋がっている。

だから先住民たちはグレートスピリットに祈るのだ。

与えられた命のために。

 

 

今の畜産、農業、ファッション産業そして私の中では養殖業も含め肯定するつもりは全くない。だが「肉を食べるな」とすることだけが全ての解決にはならないと思っている。今はそればかりを訴えることばかりが目につく。

 

veganでレザーを身につける人々。

魚は食べるのに肉を食べるなと訴える人。

食べ物を食べれないだけ頼んで残す人。

等々。

 

これらは本当にveganなのか?

それでもveganと呼ぶものがあるならば、上記の産業全てを含めたことに対して行動する人たちであり、自然との共生をしていくこと。自分が自然の環の一部として全ての命を平等に尊うことができるのか。要はveganism、大切なのは生き方の問題なのではないだろうか?

 

そういったことから、私は先住民族の智恵をいつもかりている。

彼らにとっての動物や自然との在り方はvegan以上のものである。

彼らが受ける自然からの恩恵を彼らは感謝の気持ちを込めて衣・食・住いたるとことに余すことなく使い切る。

それが他の命によって自分たちの命があるということを体現している人たちだ。

人間のための自然や、動物があるのではない。

みんなに同じ命がどこかで支え合い繋がっているという意識を持った行動だ。

 

そういう彼らの智恵を私たちがもっと学び、取り入れることができたら今の畜産業や他の環境汚染につながる産業の問題は良くなっていくのではないだろうかと、私は思っている。

 

肉がダメ。

それだけではなくて、その扱い方、向き合い方が大事なのではないだろうか?

 

一人一人がその意識を持てたらきっと変わっていくはず。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近のモヤモヤを観察してみた

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若いころの私はもっと身軽だったな…

なんて思いふけっていたある時。

じゃあ何で今はそうじゃないんだろう?

と、ふと探ってみた。

 

昔は私は自分の興味のあることしか関心がなかった。

自分軸というか、ワガママにさせてもらえたというか。

 

学生生活を終えても、実家で暮らし気楽なフリーター生活。

自分の趣味のためだけに収入を得て、自分の好きに休みをとっては旅に出る。

 

じゃあ、今はどうなのだろう?

 

そう。今は”私のもの”が増えてしまった。

私の家庭、私の家、私の子どもに私の財産…

若いころは”私の〜”なんて何もなかった。

失うものも、守るものも、責任もなく、

ないが故に強く、生意気でそして恐れや心配なんてなかった。

 

でも今は最低でも⬆︎これらの”私のもの”があることで執着、恐れ、心配や不安が増えてしまった。

 

ああ、こういうことか。

と、納得。

 

そして同時に、もうこれらのものから解放されたい!

と強く思った。

実際に手放すことのできるものや、そうでないもの。

でも手放すというのは、こだわらない。ということでもある。

本当には、どれも”私のもの”なんてものは何一つとしてないのだから。

 

歳を重ねることで暮らしは変わる。

パートナーを持ち、子を授かる。

住む家ができる。

ただ、それらに囚われないことが大事なのだろう。

ただそれらを捨て独り身になればいいとは違くてね。

 

いつの間にかそれらに縛られていた自分。

いつの間にか”私のもの”が増え全部を抱え込もうとしていた自分。

 

もっともっと軽くなりたい!

 

昔の私の中に、自己肯定とか自己否定とかなんて意識はまるでなかった。

それは自分の中に、”比較”というものがなかったからだろう。

それだけ自分が好きなことだけを見ていたから。

 

でもどこかの地点でそれが変わった。

きっと私の人生で一番辛かった30〜33歳の間だろう。

全ての自信を失った気がした。

その時初めて、”私って何もの?”って考えた。

そう、周りとの比較が始まった。

正直に、その頃は夫婦仲も良くないこともあり

苦しかった。

 

そこから今は抜け出し、

私がやりたかった宿と料理とヨガをライフワークとすることもできた。

 

一つのステージを終え、次のステージに行きたがっている自分を強く感じる。

ウズウズしている。

でもなかなか進めてなくてモヤモヤしていた自分を見つめているときにふと、☝︎こんなことを考えていた。

 

もっともっと身軽になろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アボカドの季節になりました

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我が家の庭に種から植えたアボカドの木。

今年で3度目の収穫を迎えました。

 

バリ島にあるアボカドは小ぶりで味は水っぽくて美味しくない!

だけれど、たまにパサール(市場)のおばちゃんが

『スーパーアボカドだよ!』

と言って売りつけてくるそれはまさにスーパー!

実もでっぷりしていて味も美味しい。

その種を取っておいて庭に埋めてから約4年。

5m近くの立派な木に成長し、毎年美味しいアボカドを実らせてくれています。

 

自分たちのところで愛情いっぱいに育てたのもあって、

美味しさも、収穫の喜びもひとしお。

なので私はこれ以外にアボカドを外で買うことはほぼほぼ無い。

こんなに美味しいのが食べられるのを待つこともまた喜び。

 

この他にも我が家の庭には、

パッションフルーツ、パパイヤ、グアバ、ドラゴンフルーツそしてハーブやお野菜、スパイスも少し。

季節によって収穫する果物が違い、この収穫によっていつもめぐる季節を実感してます。

現代においては、何と贅沢なことだろうと思う。

 

身土不二

地産地消

大事なことだよね。

 

手放しとゆだねること。

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雨季がだいぶ遅れて、こんなに晴れ渡った日が何日も続いたバリ島もここ数日は

やっと雨季らしく雨が続くようになって、昨日は半日土砂降り。

雨が少なくても、過ぎても困る。

人間てわがままですね。

 

 

 

私が色々と頼りにしている人から、

『あなたはまだ行為者ですね』

観照者になることで、全て解決しますよ』

と、言われた。

 

何かを言われたり、悪いことが起きたりすると

揺さぶられる感情。

それらは自分が行為者であることから起きているようだ。

 

『私』が、

何かを言われて『私』の心が傷ついて。

『私』が、

やってるんだという思考。

 

そう、私が行為者だった。

言われて自分の言動を振り返ってまさにそうだった。

 

ここ数日、良くないことが続いた。

その時、もうこれ以上私が何ができるの!

みたいになった。

ふと我に返った。

そう、『私』にできることなんて何もないのだ。

そして、『私』が今まで何かしてきたこともないんだ。

 

ただ、自分がコントロールしてきたつもりでいただけ。

 

だから、もうこの自分がこの人生をコントロールしよう

とすることをもう手放すことにした。

 

だって、今までだってこれからだって私が動かしていく人生ではないのだから。

 

もう、

宇宙にお任せしようと。

宇宙に使われようと。

 

まさに、Gitaにある通り結果を求めない行為。

ただ自分の目の前にある行為をこなす事。

 

誰にだって何かしら目標はあるはず。

その目標に向かっての何らかの努力や行為は必要だけれど、

結果は全て委ねるという事。

とにかく、今のこの瞬間を精一杯に生きていく、そして起きていくことはただ起こるべくして起こるのだと、コントロールを手放して見つめていく。

怠惰に何もしないで暮らすということとは全くもって違います。

 

もうそれしかないんだな…